例えば、 100 枚 の お気に入りの写真。
これを撮るのに要した期間が どれ程 であろうと、
ひとコマのシャッタースピードの平均が 1/125 なら、
その記録された蓄積時間は 1秒 にも至りません。
色々な場所や時間帯で、コツコツと蓄積した 我がライブラリ。
喩え、100 枚が その中の 10000 枚の中からの選択 であっても、
選ばれたコマに封じ込められた 時の流れ は 微々たるもの です。
この 累積 1秒 を記録する為に、
どれ程の時間を費やし、
機材と撮影に費用を注ぎ込み、
時にはその結果に悔しい思いをし、
選択から弾かれ残されたコマの山を見るに付け、
本当に、
写真って何だろう? と思うのです。
合理的か? と問われれば、 間違いなく、不合理!。
もっと、上手な方の作品を見て気が済むのなら、 全て無駄 と言う事に。
何と、無駄な時間と行為を喰い潰して来た事か ... 。
それ程、巷には、写真が溢れています。
でも、また、 その無駄な行為 に走ってしまう自分。
単に、 自分がみつけた! と言いたいが為に、
全神経を集中させて、被写体を追い求める ... 。
単に、 自分が撮った! と言いたいが為に、
重いカメラ機材を背負って、外に繰り出す ... 。
単に、 自分が惚れ込んだコマに出会う為に、
愛機に全信頼を置く ... 。
懲りないと言うか、 物好きねぇと言うか。
さて、この 累積1秒の陰で、 流れ過ぎた膨大な時間。
その時間に流れ去った光景は 皆 屑 か? と言えば、
そんな事は無い ですよね。
単に、 自分が写し留めなかったか、
単に、 自分の腕が至らず、失敗作に終わったか、
単に、 自分が気付かなかっただけ、
かも知れません。
お気に入り の写真群は ほんの一部 を記録したに過ぎません。
それが、 その瞬間瞬間で 最高のものであったか否か は 甚だ 疑問 です。
何か、こう書いてしまうと、 写真を撮る行為 って 凄く馬鹿馬鹿しくも思えて来ます。
でも、家族の写真なら、
自分が撮らないと他に撮る人もいないでしょう。
何かの会合での集合写真位しか残らないでしょう。
身近な光景なら、
気に留めて見入る人も殆どいないでしょう。
それこそ、事件でも起こらなければ、記録される事無く、過ぎて行ってしまいます。
観光地に出向いた時の景色に至っては、
巷に、優れた写真が溢れ返っています。
何も、自分で撮らなくても、もっと優れた写真は沢山あります。
もっと良い条件下で撮影されたものがある筈です。
もっと特殊な機材で感動を与えてくれるものがある筈です。
特殊な: 超望遠や 超広角や マクロや ... 。
しかし、自分が見た景色とは違います。
詰まる処、
私が ... 、.
と言い出し始めたい その為だけに写真を撮っている。
しかし、
写真を趣味としている方は皆さんがご存知の様に、
本当に優れた写真は、
作者の名を上回る存在感で見る者を捉えます。
全ての写真には作者がいる訳ですが、
その名前を知らなくても、 記憶に残る有名な写真 は 山ほど ありますね。
勿論、通な方は 「それは誰某の作品」 と仰るでしょうが ... 。
そうなのです。
残念な事に (?) 、
優れた写真は 作者の存在を乗り越えて、永遠の止まった瞬間 を刻みます。
そして、
年代や時代を超越して、良い写真、記憶に残る写真 として、語り継がれて行きます。
最初は作者名を付随していますが、 残れば残る程、作品がひとりで歩き始めます。
はい。
作者何て、誰でも良いじゃぁないですか!。
良いものは良い。
その作品は、 誰某 が撮ったから 素晴らしい のではなく、
その1枚の画面に記録された内容が感動を呼ぶから 素晴らしい のです。
勿論、 私の様に、 凡人レベルからすれば、
誰某 らしい 写真! 等と言われれば、 それはもう、 最高の誉め言葉のひとつ ではありますが ... 。
本当に良い写真は、撮影後、発表後の、長い長い時間が育てます。
何度見ても良い写真!。
何時見ても良い写真!。
改めて見ると何か発見の有る写真!。
普遍的なもの。
そうです。
作者を乗り越えた写真。
時間を乗り越えた写真。
1枚でも、そんなものを残して見たいですが ... 。
... 。
無理ですね、 きっと。
と、 半ば、諦めの境地 を胸の奥深くに隠して、
今日も、カメラを手に取る 私 がいます。
極々短い時間(瞬間) での出来事に 永い永い 生命を吹き込む為に。
その吹き込んだ もの が 自分等を通り越して 何かを訴える様に。
みつけたい とらえたい ときめきたい ... 。 :) 。
でも、 また、 時間の無駄、 無駄なコマの山 ... 。 :( 。
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